「暗黒時代」なき成功者などいない《就活しない生き方vol.001》

もしあなたが今、何らかの理由で「苦しい」と感じているのならば、それは将来に対する大きな「投資」なのかもしれない。

なぜなら、何らかの「成就」のためには、「投資」が必要であって、「投資」は「苦しさ」から始まるからだ。

たとえば、受験勉強の際に「苦しさ」から逃げなかった人だけが、志望校に合格する。
同じ時期に、他の多くの友人たちは、青春を楽しんでいたかもしれない。
けれども、「苦しい」時間を他の人以上に「投資」できた人だけが目標を達成する。
自明のことである。

我々は優雅にリンク上を舞う、羽生結弦の姿しか見ない。
それはまさに白鳥の姿のようで、彼が水面下の練習で悔しい思いをしながら「努力」している姿を、現実のこととして想像できない。
ただし、我々は知っている。
その日々の努力なくして、羽生結弦の圧倒的な強さは維持されることがないということを。
天才と称される羽生結弦も、今、ネイサン・チェンという未だかつて存在しなかったライバルの出現に恐怖しつつ、一方で面白みを覚えているのかもしれない。
彼は、自分が目標に対して「努力」できることを知っている。
それを才能と言ってしまうには、あまりに酷ではないか。
自然に存在するものではなく、あくまで彼の「意志」だ。
「意志」が成果をもたらしているのだ。

仕事柄、テレビや雑誌に取り上げられる「著者」と接することが多い。
「著者」は、何らかの成果を上げた人がほとんどで、ある日、僕は彼らに不思議な共通点があることに気づいた。

「暗黒時代」という言うべき不遇の時代を、彼らのほとんどが経験しているのだ。

20代のほとんどを学校の図書館で過ごし、誰にも評価を得なかったという人がいた。

10代のある時期、いじめられて学校に行けずに、そのときにハマった手芸が、今のジュエリー・ビジネスにつながっているという人がいた。

何度も落選しながら、夥しい数の原稿用紙に物語を紡いでいたという人がいた。

誰に評価されることもなく、誰からも金銭を得るでもなく、彼らはそれを続けた。

評価されるどころか、そんなの無理だと多くの人が言い、親からも見放される人もいた。友達はすでに絵に描いたような幸せを手に入れ、滑り込みで周囲が納得する相対的な幸福を手に入れ、あなたも早く幸せになるといいよと表層を優しさで来るんだマウンティングを無意識的に、あるいは意図的に繰り出しても、彼らは相対的な幸福を得るための「椅子取りゲーム」から距離を置き、そして、暗闇に引きこもった。

あるいは、はたから見れば、もうあいつは終わったと見えただろう。
暗闇の中に引きこもったように見えただろう。

本人にとっても、先が見えない「暗黒時代」だったに違いない。

けれども、振り返って見るときに、その「暗黒時代」なき人生を思うと、彼らは戦慄しただろうと思う。

「暗黒時代」がなければ、今、こうして評価されることがなかっただろうと。
今の「自由」はなかっただろうと。

理不尽と恐怖に満たされた暗黒時代を過ごすとき、人は、日々、迷いに苛まれる。
この苦しさに何の意味があるのか。
引き返してもいいのではないか。
まだ、椅子取りゲームに間に合うのではないか。
けれども、その先に微かな光があることを感知し、やがて、自らその光を手繰り寄せる。

そのときに、自ら掴み取った「自由」の価値を知る。

体の芯で、自由がどういうものかを理解する。

令和の時代、「暗黒時代」を得にくくなった。

まずは、家庭では親が、職場では上長が責任を放棄し、「暗黒時代」に子や部下を放り込むリスクから逃げるようになった。

努力しろ、勉強しろ、しっかりと我慢して働けと言わなくなった。

たとえば、それは第二次世界大戦中に、「戦争反対」と言えないのと同じことだ。言えば「空気」に圧殺される。「働け」「努力しろ」と言えば、今の時代は「空気」に圧殺される。強い呪いがかけられている時代と言ってもいい。

だとすれば、若い諸君は、自ら「暗黒時代」に身を投じなければならない。

上の世代は、君たちが大人になったときに、何ら「価値の提供」ができなかったとしても、責任を取ってはくれやしない。

自ら「暗黒時代」に身を投じ、あるいは迫りくる「暗黒時代」から逃げずに、その場に踏みとどまり、自ら自由を手繰り寄せるほうが、これからの時代、よほどリスクが低いと僕は思っている。

そして、一度「暗黒時代」をくぐり抜ければ、その先に光があることがわかり、怯まなくなる。新しい自由を手繰り寄せることができるようになるだろう。

そうして、攻略しないことには、これからの令和の先の時代に、今まで僕らが体験してこなかった多くのことどもに、隷属することになるだろう。

努力しなければ、自由は得られない。

暗黒時代なくして、成功はない。

たとえ、小さな成功だとしても、だ。

これは、精神論ではなく、至極合理的な科学である。

関連記事一覧

  1. この記事へのコメントはありません。